さて、海外2か国目は・・・・カナダです
カナダの西部にあるバンクーバー島の南部に位置するビクトリア。カナダの最南端ですが、横に大きい国で最南端という表現はあまりしませんね
まず、どうしてカナダを希望したかというと、
・よく小さな島国と言われる日本で生まれ育ったので、大きな国土で生活して、その人た ちの文化、考え方など体験したかった(とはいっても日本の国土の大きさは世界で約60番目。でも、なんか我々自身、日本を小さな国と思い込んでしまいますね)。
・植物学者の兄がイギリスを好きで、その影響か、イギリス色の強いところで生活してみたかった。
・それまでの大阪、韓国、群馬での日本語学習者はアジア圏が多く、白人は数名しかいなかった。
などの理由が挙げられます。
私のような「英語が話せない」者は、基本的には日本語教師としての欧米諸国での就職は難しいと言われます。そして、仮に英語が話せても欧米での就職となるとやはり「大卒」というのも必然になってきますね。アジア圏では大卒じゃなくても日本語教師としても働ける国はありますよ。
なので、私でもスムーズに仕事に就けたのが、「ボランティア」でした。渡航費から、生活費、教材コピーももちろん自腹で、授業の給与もありません。就労じゃないので、ビザはいわゆる「観光ビザ」で行って、日本語教育に携わりました。よって、私が赴任した学校、というより「日本語教室」も、安めのお月謝で通っている学生さんでした。
(左上:初級中 左下:中級 右上:ゼロ初級 右下:上級)
まず日本語授業での一番の思い出は・・・
それまでの「日本語教師としてのビリーフ(信念)が崩壊」したことです。群馬編でも「学生の何ができるようになる?」という考え方を持たせてくれるエピソードがありましたが、ここでもいい意味で自分を変えることができました。以前よりさらに私の授業は「使える日本語」という授業になり、学生からも好評をいただけるようになったので、私としてはボランティアといえども、カナダでもますます学生が「日本語が使えるようになる」授業を展開しました。
しかし、事件は起こりました。ある学生さんが急にこんなことを言ってきました。「ひろ先生。私はあなたの授業スタイルはいいと思う。しかし・・・・私には合わないようだ」のような内容を英語で言われました。英語が苦手な私は真意を理解するのに何度も聞き返して確認しました。すると続けて、「確かに使える日本語はいいが・・・残念ながら、私の周囲、ここビクトリアには使う相手、日本人がいないのだ」と。
愕然としました。ネイティブ日本人の日本語教師の私なので、当然、私から習う学生さんは、みんな日本語が使えるようになりたいと思っている、と私が決めつけていたんです。
そんな授業よりも、
学生A:このビデオ(どこから取り寄せたか、『ああっ女神様』『きまぐれオレンジロード』といったちょっとオタク系のアニメ)のセリフを通訳、英語でストーリーを説明してほしい。
学生B:私は料理が好きで和食のレシピの本を持っているんだが、ふりがなもなく漢字ばかりで、文法も難しく、翻訳してほしい。
学生C:私は合気道をやっているが、すぶりをするときの掛け声で「1・2・3・4・・・」を「いち・に・さん・し」と言うべきか「いち・に・さん・よん」と言うべきか、教えてほしい。。。
というどれも直接日本人と会話するときにあまり必要とは言えない要求を言われました。
でも、このおかげで私は気づきました。学生の満足度はそれぞれ違うんだと。何より、学生のニーズなどをはじめにちゃんと聞かずに、私が勝手に「使える日本語」を身につけたら学生は喜ぶと思い込んでいたことに問題があったのです。よくJFL(外国語としての日本語)とJSL(第2言語としての日本語)という表現がありますが、もちろん日本に来て日本語を学んでいる人にはJSLが必要でしょうが、日本には行かず、また日本人に使う機会がない人には、日本語を外国語として、知識教養として学ぶことが楽しいと思っている方もいることに心から気づきました。自分が外国にボランティアとして行ったからこそ、こういう学生さんに出会えたので、とても大事なことを教わりました。学生がどんな日本語を学びたいと思い、またどんな日本語が必要なのか、これらをじっくりと分析してこそ、よりいい授業ができることを学べました。
ビクトリアの街並みは、それまでの私の生活環境にはまったくないものでした。家を出て買い物に行くだけで、そこは植物園をまわるような毎日でした。他に、ボランティアで音楽療法活動をやっていた私は、高齢者が住みやすいことで有名なビクトリアの老人ホームを訪れ、施設を見学しダンスパーティーに参加。滞在中にハロウィンがあったので、即席で作った仮装でパーティーに参加。学生の親戚が山一つ持っていて、1日中乗馬させてもらったり。写真はありませんが、郵便局員が歩いて郵便物を届けていたり。実に「ゆっくり」時間が過ぎていく街がとても刺激的な3ヶ月でした!
さて、海外、韓国での1年の仕事を終えて帰国した先は・・・
出身の大阪ではなく、群馬県でした。
私にとって、海外で生活することはあっても、関東に住むということは、考えたこともなかったので自分自身でも意外な選択でした。
初の関東の暮らしで、やはり驚いたのは、同じ日本だからこそわかる、。基本的に大阪弁の私は、日本語教師養成講座に通っているときに、NHKのアナウンサーの話しを意味がわからなくてもシャドーイングしたり、共通語(一般には標準語とも言う)を話す好きな俳優さんになりきって普段生活をしたりして、東京アクセントを身につけようとがんばりました。その結果、大阪人だとばれることはまずないんですが、いくらアクセントが共通語でも、「使用語彙」も変える必要があり、これはかなり苦労しました。たとえば、椅子を使う際、引いた状態から戻すときに「椅子をなおしてくださいね」と言うと、「あ、しまった、この表現はこっちでは使わないんだ・・・」とか。
ちなみに「なおす」の意味は、多くの辞書には
①正しいもとの状態にもどす「故障・病気をなおす」
②改める「姿勢をなおす」
③別の状態にする「英語を日本語になおす」
という意味が見られます。
たとえば、日本語学習者がかばんから机の上に書き上げた作文を置いている。
それを日本語教師が「リンさん、それなおしてください」と言うと、修正しろなのか、片付けろなのか、ということですね*^.^*
よく関東の人は、西日本の意味がおかしいという人がいるかもですが、辞書には両方の意味があり、関東では「片付ける」という用法を使っていない、という解釈もできる。
私はどちらが正しいか、優位か、というのではなく、「違うんだ」だけの話だと思うようにしている。昔は、方言コンプレックスからか、日本語教師になるには「ら抜き」なども含め、話す場面でも書く場面でも「共通語」を使用しなければと思い込んでいたときもありましたが。群馬での生活は、まずこういった私自身の日本語の再考という意味でもいい経験となりました。
さて、群馬での日本語教育ですが・・・大きな変化があったのは外国人ビジネスマンへのビジネス日本語授業ですね。群馬でも初めはいわゆる日本語学校の非常勤講師として就職したのですが、自分自身のスキルアップのためにチャレンジしてみました。
どのような就職活動をしたと思いますか?^^
だめもとで、タウンページで外国人労働者がいそうな企業を調べ、片っ端から手紙を送りアピールしました。日本語教師の派遣会社じゃないので、マージンも発生しない、大阪、韓国での経験、大学の専攻が経済・・・など。30社ほどに送りました。
すると・・・1社だけですが「ヒット」が来ました!
太陽誘電という地元では有名な企業。CD-Rを開発した会社です。
太陽誘電では以前から「技能研修生(今の技能実習生)」を受け入れていて、特にフィリピンからの研修生がいたようです。そこで、太陽誘電の社員がその研修生たちに「日本人なんだから日本語話せるし、誰でも国語のような授業したら教えられるんじゃないの?」という発想で教えていたようですが、思うように効果が上がらなかったようです。
そこに、偶然にも(いえ、きっと必然!運命!*^.^*)私からの日本語出張授業のちらしを手に取った担当者さんが私に興味を持ってくださり、即面接、即採用。さらに私が行う日本語授業を担当者が見たいということで、見ていただくことになり、そこで私が日本語を教えている様子を見て、大変衝撃を受けたようです。
その後、担当者にも適度に授業に入ってもらうことにしました。なぜなら、日本語教師じゃない日本人は当然、学習者が初級のうちはどのような日本語をどのように習得しているかわかりません。学習者は私との会話ならけっこうできるんですが、良くも悪くも普通の日本人と初級学習者では満足に会話ができないことが多いです。
日本語教師が書き言葉の教科書どおりに発音している一方で、普通の日本人は話し言葉、方言、易しく言おうとしてタメ口を使ったりする。すると、学習者はタメ口を習っていない状態で、よけいに難しい日本語になってしまう・・・などなど。
ですから、まだ初級の学習者と話すときは、現場の担当者も少し私のような話し方をしてくれれば、会話がある程度できるということを知ってもらうために(今「やさしい日本語」というのが少しずつ浸透しつつありますね)。
もちろん、それでは学習者の成長が遅れることもありますから、普通に話してもらうことも大切です。
太陽誘電では時給も、それまでの日本語学校の倍近くいただけるようになり、逆に言うと、必ず結果を出さなければならないというプレッシャーもより強くなりました。これが私にはよりいい道へと進むことになりました。なんとなく、学生次第で学生の伸びが決まる、そのうち上手になる・・・なんて気持ちもそれまでの私はどこかあったような気がします。
私の学生さんの部署での日本人上司があるとき、ふと私にききました。「この学生たちはいつ、電話応対とか、会議で日本語で意見、とかできるんですか?」と。私は正直、何も答えられなかったのを覚えています。デビューした大阪の日本語学校の主任からは、もちろん私がビギナー教師だったので、私のために言ってくれたと思いますが、「このテキストを1日でOページ進めてくださいね。聴解授業ではこのテキストを使って、ここでテープ(今は、CD、PCで流す音声データですね)を流して、学生に答えさせて、答え合わせをしてください」のようなことしか言われませんでした。
つまり、「どのテキストをいつまでにどうやって終わらせるか」だけでした。当時の私は、恥ずかしい限りですが、それで疑問も持ちませんでした。もちろん、いい授業を目指して、あの手この手の授業をしましたが、この何気なく言われた「この学生はいつOOができるようになる?」という発想はなかったので、これではいけない!と思うようになり、私が作るシラバスに、
1週間後 簡単なビジネス自己紹介ができるようになる
2週間後 名刺交換ができるようになる
・
・
6か月後 電話の取次ぎができるようになる
1年後 電話のクレーム対応ができるようになる
など、今では普通の考え方ですが「JFスタンダードのCan-do」のような発想を自分なりに考え、実践するようになりました。すると、学生たちの部署の日本人スタッフも少しは安心してくれましたし、何より、私自身の授業も、達成目標を設けることができて、よりいい授業になっていきました。
このあたりがいわゆる会社経験をせずに日本語教師になった私の弱点だったように思えます。お金をいただくということは必ず結果を出すことです。会社では当然のことです。よって、私が授業する限りはどんな学習者でも必ず結果を出すようになっていきました。
【技能実習生たちと群馬の名産、だるま工場に見学授業】
群馬は、郊外、自然、土地代の安さなどもあり、けっこう外資系の工場などもありました。そこでフランスのタイヤの会社、ミシュランでも日本語教師の募集が出たのを知りました。太陽誘電である程度結果を出した私は、面接もパスし即採用となりました。ここでは1日8時間授業、評判もよくオファーも増え、土日も1日4時間のプライベートレッスンなどもあり、しばらく過去最大の1週間48時間授業という日々もありました。
当然、授業には綿密な準備が必要です。学習者によって・内容によって・やる箇所によっても違いますが、初めて教える項目だとそれが1時間の授業なら、少なくとも倍の2時間、多ければ10時間以上費やすこともあります。なので当時の私の生活は・・・。
さらに出張授業で、時に高速使って1時間半かけて行く工場などもありました。何度、信号待ちで「夢」を見たことか・・・。今、私は自然にサイドブレーキをかける習慣があるんですが、この群馬時代に身に付けたようです・・・。
「今働いているビジネスマンにビジネス日本語を教える」のは、スポンジのように吸収し、すぐ使えるよう会話場面シラバスも時に使ったり、土日は大人の付き合いでよくレジャーに誘われたり、時給も高め、でも普段は家での予習復習に充てる時間はない方々で、必ず結果を出さないと次の更新はないであろうプレッシャーなど、それまでにはない日本語教師生活に新鮮さもあり、スキルを上げることができました。
【ミシュランのフランス人社員と。場所は居酒屋です♪】
この群馬での経験が、のちのインドでのゼロ初級ビジネス日本語クラスでわずか5ヶ月で10名全員の学習者を日本の企業に就職させた経験につながっていくわけで、本当に財産となりました。
残念なのは、のちに4回腰の手術をすることになるので、もっと日本有数の温泉地群馬で温泉めぐりをしておくべきでした・・・*^.^*群馬での約3年間の生活も忘れられないものになりました。
次回は、海外2カ国目のカナダ編です!
教務主任の勝川です。
日本語教育歴に、ついに海外進出が登場です!^^
大阪の日本語学校で、土地柄か当時韓国の学生がとても 多くて、学生から
韓国のことをたくさん聞くうちに、 自らが韓国に行って、教えたくなりました。
もともと、日本を飛び出して仕事をするという気持ちで 見つけたこの
日本語教師という仕事なので、待ちに待った瞬間でした。
大阪での日本語学校生活を約2年終え、辞める時は学生が花をくれたり、
今思うと恥ずかしい授業がたくさんあったんですが、 本当にいい思い出になりました。
韓国の語学学校の求人を見たのは、大阪にあった日本語教育専門の書店の掲示板。
当時は、まだネット社会でもなく、先方の学校とのやりとりも履歴書を送った後は、FAX、電話だけで採用決まりました。
これも国内で日本語教師の経験があったおかげだと思います。
さて、韓国に着いた日、大阪での日本語学校のときの卒業生がソウルの空港まで迎えに
来てくれました。はじめての外国暮らし。期待以上に不安が大きかったので、
本当にうれしかったです。
首都ソウルから、 確かバスで3時間ほどでした。日本と比べると交通料金が安い安い♪
500円ほどでした。5000円と言われても払っていたと思います。
勤め先は、後に流行したあの韓国ドラマ『冬のソナタ』のロケ地、
春川(チュンチョン)です。真冬はマイナス20度の寒さ。着いた翌日、勤め先の周囲を案内してもらいましたが、近所の大学に韓国語で
「日本人日本語教師 勝川先生 ようこそ!」のような垂れ幕があったんです。
語学学校の学院長が大学生を学校に呼び込もうと大宣伝してくれて いました。
しかし、その翌日、台風のような強風が吹き、その垂れ幕がどこかに飛んで
行ったようです^^; 不吉・・・。
さて、すぐに授業が始まりました。始めは前任者となる日本人日本語教師のクラスに
見学として入りました。何よりも驚いたのは授業時間です。
日本の語学スクールも朝から授業がある学校もありますが、韓国では朝6時ごろから
始まるのが一般的です。よって、私も毎日5時前には起きて、学校に行きました。
授業は朝6時半から3時間。そして、夜も18時半~3時間。1日を2回に分けて生活
していました。朝の授業後は近くの大学食堂へ行き、いつもご飯大盛りにしてもらい、
200円ほどでおいしくいただけました。その後、昼寝をして、授業準備をして、
また夜の授業前に学校へ行く。夜の授業後は、雨が降るとなぜか学生から
「飲みにいきましょう、カラオケに行きましょう」と誘われました*^.^*
晴れのときは一人で町の食堂へ。
けっこう外食が多かったです。日本での一人暮らし時代は、極力節約するため、毎日鶏の胸肉料理を使って、カレーで3日間、シチューで3日間のローテーションでしたが、
やはり授業後の疲労の中、外で食べられるのは幸せ。せっかく外国にいるわけなので、
いろんな料理も食べておきたいですしね!
ここでちょっとビザのお話をしておこうと思います。
海外で就労する場合は、ほとんどの国では日本語教師という職種の場合、「大卒」という学歴が必要になっています。もちろんいくつかの国、機関は「大卒」がなくても
日本語教師はできます。また、ボランティアやインターンなら話は別です。
私は恵まれた環境で大卒という資格を持っていますが、
(本当に親には感謝しております)
持っていない人で、幅広く海外で日本語教師として働く!という方は、通信、放送大学
なども含め、大卒の資格が取れるので、チャレンジするのもいいかと思います。
韓国の住居を話すと、ぜひ触れたいのが「チョンセ」というシステム。
私が韓国に赴任したころは、いわゆる銀行の預金金利(利子)が1約10%も!
日本は、当時1%ほど。今は・・・0,01%ぐらいでしょうか。
ですので、チョンセとは、「保証金としてはじめに、仮に100万円預ければ大家は1年後10万円の利子があるので、住居人から毎月1万円もらうのと同じ金額になり、はじめに
渡した100万円は退去時に丸々返ってくる。つまり、住居人は毎月無料で部屋を
借りられる」ということです。
こんなウハウハなことが、日本では考えられるでしょうか。
というわけで、私も何も疑わずチョンセを利用しました。ただ、今はちょっとネットで
調べたらいくらでもでてきますが、やはり「うまい話には注意せよ」ですね。
私が入居したアパートが経営不振で競売になってしまい、私は結局退去時に預けた金額が戻ってきませんでした。大阪での日本語教師時代に節約してがんばって貯めた
お金が・・・。
ま、ちょっと高い授業料だと思うことにしました。それでも、私の学生が、弁護士事務所などに連れて行ってくれて、通訳もしてくれて、私を助けようと何人もの学生が
動いてくれました。この思い出は一生消えません。
お金はなんとかしたらあとから簡単に消えますし、また増やすこともできます。
外国の人にこんなに助けられたという思いのほうが、ずっと上回りました。
それによって、私ももっともっと日本国内、世界中の日本語学習者の助けになりたいと
思えるようになりました。
授業は、ネイティブ日本語教師として呼ばれたので、ここの学校では、基本的には
日本語だけで日本語の授業をしていました。しかし、日本国内に来ている学生なら
第2言語習得の目的がもっぱらですが、自分の国で外国語を学ぶ学生は、知識教養
として、日本語能力試験合格を目標にしている学生もいて、必要に応じて、
現地の言葉も知っていると、より多くのニーズに応えられると思います。
普段の生活では、多くの方にや何かと登山に誘われました。普段から体を
鍛えているんだな~と、感心しました。
【同じ学校の韓国人英語教師さんと】
日本語学習者さんに韓国国営放送KBSのカメラマンさんがいらっしゃり、
放送局の見学に♪
カメラは全てSONYでした。ちょっと誇りに思えました*^.^*
【テレビに映っているのは、後任のみわ先生と、仲良かった学生ミンジョンさん】
大阪の日本語学校時代の学生が、釜山から春川まで会いに来てくれました。
またいつの日か、この仕事には定年がないので、迎えていただけるのなら、ぜひまた
韓国に行って、日本語教師したいです!
教務主任の勝川です。
大好評で(ウソです)、私の履歴書第2弾に突入です*^.^*
日本語教師養成講座時代のボランティアで日本語を教えていた学生さん
からの強い希望で、日本語学校で急遽、面接・模擬授業をすることになり、
なんとか採用をいただき、大阪の日本語学校にて日本語教師デビュー!
スタートは、採用された人が外国人に教える環境に適応力があるか、また、
今まで教師などをしたことない人が現場で授業を担当できるか見るためにも、
非常勤講師で週に2~3日出勤というのが一般的だと言われています。
さて、私は日本語の初級クラスを1コマ(その学校は1コマ60分)、 中級の
クラスを2コマでスタートです。
学校にもよりますが、日本語の初級クラスと中上級クラス、どちらが
ビギナー先生に向いているかというと、仮に私のようにそれまでの生活で、
いろんなイベントをしたり、 大学でも大学際実行委員など、ちょっと
人目に触れることをやってきたタイプなら、中上級クラスのほうが
向いていると思われます。
初級クラスでは、日本語があまりできない人たちのクラスですし、 多国籍で
媒介語もないし、あったとしても、たくさん日本語を使わせる必要があるので、
日本語だけで日本語を教えるというスタイルが多い日本語学校では教師の
語彙コントロール力がかなり求める学校が多いです。
今までの私の特性を生かし、主任先生は私を中級クラスに入れたんだと思います。
時給は、東京大阪などでは普通ですが、1時間1,300円ほどでしたので、
もちろん養成講座に通ってから1人暮らしを始めた私には苦しかったです。
ちなみに、ここ福岡は日本でも時給がかなり高いほうです。
福岡の求人サイトとして有名な大谷書店の求人などをご参考に♪
http://otanishoten.jp/kokunaishushoku.htm
日本語を教えるボランティアは辞めましたが、音楽療法、手話教室などの
ボランティア活動を続けていました。
もともとこういう活動を好きでしたが、日本語教師としても
この活動がとても生きました。
自分とは同じだと思っていても、やはり違いもある。
むしろ違って当たり前で、その相手の立場になりきって、
はじめてわかることがあるというのを実感しました。
英語の”understand”とはよく言ったものです。
相手の下に立って初めて理解できるという気持ちを大切にしました。
ただ、週2,3日の学校収入に、ボランティア活動では、
日々のご飯すら食べられなくなるので、アルバイトも掛け持ちで。
休日の前の夜~朝は夜間でコンビニ、平日の夜は大阪の北新地で
老舗のたこ焼き屋台、天丼屋。
よく留学生がたこ焼きを食べに来てくれて、サービスしてたなぁ。
やはり、学生生活とは違い、自分で稼いで、自炊して、
親のありがたみもですが、いろんな社会経験ができました。
しかし、私も当初は「日本語教育を舐めていた」のも事実です。
準備は怠らずやってたつもりでも、ボロが出まくり、
学生からの質問にうまく答えられないことも多く、自分でも苛立ちが増し、
バイトを減らし、もっともっと準備するようになりました。
すると、学生たちも私も認めてくれたのか、教室内でも外でも
(学校によっては一切学生と学校外で遊ぶのを禁止のところもあるようです)
どんどん声をかけてくれるようになり、そんな声が主任に届いたのか、
半年後には、授業数も倍に、担任の打診も受けて快諾しました。
当時の、同期入社も含めて周りの日本語教師の先輩方には
本当によく育てていただきました。感謝です。
一番学んだのは「女性学」かもですが・・・※ヽ(*^▽)ノ※
でも、これも大事な学問です。
しかし、本当に日本語の様々なスキルを的確に身につけられる教師には
程遠い教師でした。今でも、日々奮闘中ですが*^.^*
写真は運動会です。だいたい1年に2回は課外活動などが行われます。
1度、ほぼすべてを私が企画、運営、準備などをしたイベントです。
普段の運動不足がたまってか、学生たちのはしゃぎようは
すごかったです。私の顔が見えません^^
当時から、会話の授業などはいつも学生の声をカセットテープに録音していたので、
今でも聞くと本当に懐かしいです。学生への振り返りや試験として採点するため
のものですが、宝物です。
あぁ・・・発音や話し方をきちんと教えられなかった私を許してください。
と、いつも思ってしまいます。
さて、初めての日本語学校も2年の月日が経ち、いよいよ
私の当初の目的、目標である海外での日本語教育時代に突入です。
続きは・・・第3弾にて。お楽しみに! *^.^*
教務主任の勝川です。
日本語教師を目指す人にとってこの時期はとても大切な時期です。
一番求人が多いのは、日本国内の日本語学校からの求人募集。
(日本語学校とは主に大学など高等教育機関に進みたい留学生への日本語指導)
日本語学校では多くは入学が4月と10月なので、今が就活の時期なんです。
そこで、国内4県、国外4カ国で様々な日本語教育に携わってきた
19年間の経歴をここに大公開!
これから日本語教師になりたい方、今日本語教師養成講座に
通っている方、すでに現場に立っている日本語教師さん、
何か少しでもお役に立てればと思っております。
第1弾は「日本語教師養成講座時代」です♪
大阪出身の私は、親のすねをかじり何とか
大学までは行かせていただけました。
3年生まで特に日本語教師なんて、そんな仕事が
あることも知りませんでした。
元々、職場を地球規模で考えていたので、4年生になったころ、
色々本で見た中で、青年海外協力隊の職種で「日本語教師」というのに
出遭いました。
企業への就職活動の最中、大学卒業後また資格取得の学校に通うなど、
なんと親の期待を裏切ったものかと自己嫌悪にもなりながらも、
だからこそ本気で取り組めたのかもしれません。今から20年前の話です。
(↑ 日本語教師養成講座修了パーティーにて)
大手の日本語教師養成講座に通っていた頃は、初の一人暮らしなども
始まり、刺激的な日々でした。週3日通い1年で資格を取りました。
その際、2つの日本語教師ボランティアもしていました。
1つは研修生への授業にアシスタントティーチャーとして経験を
積ませていただいた関西研修センター( ↓ )。
もう1つは養成講座と同じグループの日本語学校での会話ボランティア。
通っていた養成講座は、外国人に実際教えるなどの授業もなく、
ボランティアで力をつけようと思いました。
あと大阪人ということで、東京アクセントで早く話せるようになろうと、
毎日NHKのニュースを聞いて、後からついて読んでいくという
今でこそ「シャドーイング」といって有名なやり方なのですが、
当時、自ら発見してやっておりました。
友達と話すときも、大阪なのに東京アクセントで話し、
数多くの友人からも煙たがられました。・゚゚ ‘゜(*/□\*) ‘゜゚゚・。
でも、小学生時代から尊敬もする、かつ親友の同級生、翼くんから
「かっちゃん、えらいな。そこまでプロ意識持ってるんやからな」という
言葉にとても励まされました。
さらに現場に出たとき「フォーマルな話し言葉、書き言葉」に慣れようと、
「ら抜き言葉」などを意識的に言わないようにしました。
今となっては、場面によって使い分けていますが、
当時は「大阪弁の日本語教師」と言われるのがいやで、
相当努力したのが懐かしいです。
そんな中、あっという間の1年間。さあ、いざ現場へ!・・・と思いきや、
まだ一度もまともな就職をしていなかった私は就活におじけずき、
不安と焦りしかない日々。
そこに、ボランティアで教えていた学生さんが在籍している
日本語学校に強引に私を推薦してくれて、ボランティアの日なのに
いきなり面接と模擬授業をやっていただくことになり。服装もGパンなのに。
模擬授業は「~てください」という文型の導入。
よくわからないままに授業をしました。
何も教案も作らず、練習もしていないままで。
でも、私を推薦してくれた留学生を悲しませたくない一心で、授業をしました。
結果は合格。授業が下手だったのは自分でもわかりました。
その留学生が推薦してくれたというのが、唯一の合格の理由でした。
ですから、今でもその留学生さんには感謝感謝です。
あとは、2つのボランティアで外国人との交流に体がなんとか慣れていたんでしょう。
強引に面接を開くようにかけあってくれたおかげで、
資格取得後すぐに現場に立つことができました。
同じ養成講座受講生でも、すぐに現場に出たのは、クラスでも2人ほどでした。
ちなみにこの留学生さんは、その後母国の韓国の高校で
私と同じ日本語教師となって、すばらしい授業をして、
2012年、ご主人と3人の娘さんを連れて、福岡に会いに来てくれました。
このように就職までも学生の手を借りて、やっと就職できた私ですが、
その後の日本語学校でのエピソードは第2弾で!*^.^*
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